著者:野原琉海(業務効率化に特化したエンジニア)
経理担当者が突然退職届を出してくる——これは中小企業で繰り返し起きる出来事だ。
「突然」と感じるのは経営者側の話で、担当者の側では相当な期間、退職を考えながら仕事を続けていることが多い。早い段階でサインに気づければ、退職を防げる可能性がある。逆に言えば、サインが見えていなかったのは、経営者が担当者の状況を把握できていなかったということでもある。
業務効率化の支援を続ける中で、経理担当者の退職を経験した経営者から話を聞く機会が多い。「まさかこの人が辞めるとは」というケースに共通するパターンがある。この記事では、経理担当者が辞める本当の理由と、経営者ができる具体的な防止策を整理する。
経理担当者が辞める理由5つ
理由1:一人に業務が集中している
中小企業の一人経理体制で最も多い退職理由だ。月末・決算前は残業が常態化し、他の社員が定時で帰る中、一人で処理を続ける状況が続く。
中小企業では人員が少ない分、売上管理・仕入れ管理・給与計算・税務対応・資金繰り管理をすべて1〜2名でこなすケースが多い。業務量が1人のキャパシティを慢性的に超えた状態が続くと、担当者のモチベーションは徐々に下がる。
「自分だけが特別に頑張らなければならない」という感覚が半年・1年と続くと、退職の相談なく突然辞めるケースが出てくる。実際にそういう現場を複数回見てきたが、担当者が辞意を告げる前の段階で業務量を把握できていた経営者はほぼいなかった。
経営者が見落としがちなこと: 担当者が「いつも頑張ってくれている」に見えるのは、業務量が適正ではなく、無理をしているからかもしれない。月末に担当者がどれくらい残業しているか、正確に把握しているだろうか。
理由2:制度変更のたびに業務が増える
近年、税制改正・会計制度の変更が続いており、経理担当者の対応負担が増加している。
インボイス制度の導入(2023年10月)後に実施された調査では、20〜30代の経理担当者の約4割が「異動・転職・退職を希望するようになった」と回答している。電子帳簿保存法も、宥恕期間を経て2024年1月から完全義務化となり、対応の手間が増えた経理担当者は多い。これらの制度変更は、既存業務に追加される形で降ってくるため、担当者の疲弊につながりやすい。
「制度が変わるたびに自分だけが対応して、それが給与や評価に反映されない」という積み重ねが、退職の引き金になる。
理由3:給与・評価が市場相場に見合っていない
経理担当者は会社の財務状況を全て把握している。自社の売上・利益・役員報酬・他の社員の給与を知りながら、自分の給与が相場より低いと感じている場合、転職意欲が高まりやすい。
求人媒体の公開データによると、経理職の中途採用における年収相場は以下の通りだ。
| 経験年数 | 年収相場の目安 |
|---|---|
| 1〜3年(経理アシスタント) | 280万〜350万円 |
| 3〜5年(一般) | 350万〜450万円 |
| 5〜10年(主任・係長相当) | 450万〜600万円 |
| マネジャー・CFO補佐クラス | 600万円以上 |
この相場を下回る給与で採用・維持しようとすると、数年以内の退職リスクが高まる。特に3〜5年のキャリアで会社の経理業務を一通り覚えた段階で、転職市場での自分の市場価値に気づくケースが多い。
理由4:キャリアの先が見えない
中小企業の一人経理は、毎年同じ業務を繰り返すことが多い。会計ソフトの操作・仕訳入力・給与計算・年末調整——これが5年・10年続くと、スキルアップの機会がないまま年齢だけが上がるという感覚が生まれる。
特に20〜30代の担当者は「今の会社にいてキャリアが広がるのか」を常に意識している。成長環境が感じられない場合、転職を選ぶ判断が早くなる。
僕が支援した会社の中で経理担当者の定着率が高かったところを振り返ると、定型業務を外注に切り出して担当者が「判断業務・管理業務」に集中できる体制を作っていたケースがほとんどだった。担当者が「この会社にいると成長できる」と感じられる仕組みを意図的に作っていたのだ。
理由5:孤立感・相談相手がいない
一人経理の担当者は、業務上の疑問を社内で相談できる相手がいない場合が多い。経理・会計の専門知識を持つ同僚がいなければ、仕訳の判断・税務の解釈・制度変更への対応を全て一人で調べるしかない。
この孤立感は、外から見えにくい。他の社員と普通に雑談しているように見えても、「この仕訳は本当にこれでいいのか」という業務上の不安を常に抱えていることがある。税理士との月次打ち合わせだけでは解消されない疑問が積み重なると、「もっと専門的なチームで働きたい」という気持ちが強まる。
退職の兆候を早期にキャッチする7つのサイン
退職届は突然に見えるが、多くの場合は事前にサインが出ている。
| サインの種類 | 具体的な行動・変化 |
|---|---|
| 業務面 | 月次報告の量・質が下がった |
| 業務面 | 後任を意識するかのような確認・引き継ぎ質問が増えた |
| 行動面 | 有給休暇の取得が突然増えた(面接日の確保) |
| 行動面 | 業務時間外の連絡を急に嫌がるようになった |
| コミュニケーション | 経営者との会話が明らかに減った |
| コミュニケーション | 改善提案をしなくなった |
| コミュニケーション | 「将来的に○○したい」という話をしなくなった |
これらのサインが複数見られる場合、担当者はすでに転職活動を始めている可能性がある。有給取得が突然増えた時点で、面接に行き始めているケースが多い。
サインに気づいたら、問い詰めるのではなく「最近どう?業務で負担になっていることない?」と軽いトーンで聞くのが有効だ。「問題ない」という答えが返ってきても、続けて「具体的にどの作業が時間がかかっているか教えてほしい」と掘り下げると実態が見えやすくなる。
一人経理の業務量は適正?従業員数別の目安と限界サインでも詳しく書いているが、業務量の限界サインは思ったより早い段階から出ている。担当者が「限界だ」と経営者に伝えることはほぼない。言っても変わらないという諦めか、弱音を吐きたくないというプライドによるものが多い。
経理担当者が辞めたとき、会社に何が起きるか
退職リスクを理解するには、「辞めた後に何が起きるか」を具体的に把握しておく必要がある。
| 影響 | 具体的な問題 | 発生タイミング |
|---|---|---|
| 業務停止リスク | 給与計算・振込ができない | 退職後1〜2週間 |
| 財務リスク | 取引先への支払遅延が発生 | 退職後1ヶ月以内 |
| 採用コスト | 求人広告・エージェント費用が発生 | 即時〜3ヶ月 |
| 引き継ぎ不足 | 過去の処理の意図が分からない、業務のブラックボックス化 | 退職後すぐ |
| 税務リスク | 決算・申告の遅延、書類の不備 | 退職が決算期と重なった場合 |
特に危険なのが「業務が属人化している状態での急な退職」だ。経理業務が特定の担当者の頭の中にしか入っていない場合、退職後に「どの銀行口座があるのか」「請求書の保管場所はどこか」という基本的なことすら分からなくなるケースがある。
採用コストについても現実的に把握しておく必要がある。経理職の中途採用では、求人媒体への掲載費と採用工数を含めると1名採用に50万〜100万円程度のコストがかかる。採用エージェントを使う場合、採用者年収の30〜35%が相場で、年収400万円の担当者なら120万〜140万円の費用が発生する。さらに、新人が即戦力になるまでの3〜6ヶ月間の生産性低下コストが上乗せされる。
これを聞いて「そんなに?」と思うかもしれないが、現実がそうだ。だからこそ、在籍中の担当者の業務環境を改善することに投資する方が、採用コストより安くつくことが多い。
退職リスクを下げるための具体策4つ
対策1:月次で業務量を数値で把握する
「どうですか?」という曖昧な確認ではなく、毎月末に「今月の残業時間」と「次の月に繰り越した未完了タスク」を数値で把握する仕組みを作る。
経理担当者が月に20時間以上の残業をしている場合、業務量が一人のキャパシティを超えている可能性が高い。この状態が3ヶ月以上続いているなら、定型業務の外注を検討すべきタイミングだ。数値で把握することで、「頑張ってくれている」という感覚論ではなく、事実ベースで対処できる。
対策2:定型業務を外注で切り出す
記帳・給与計算・請求書処理の定型作業を外注に切り出すことで、担当者の負担を下げられる。
バックオフィス代行の費用相場|業務別の料金目安と選び方でも触れているが、記帳代行は月3万〜8万円、給与計算代行は従業員10名規模で月2万〜3万円が相場だ。担当者の残業コストや退職リスクと比べると、外注の方がコスト効率が良いケースは多い。
担当者が「確認・判断・税理士との連携」に集中できる体制にすることで、「自分にしかできない仕事をしている」という充実感も生まれやすい。定型作業の外注は、担当者のスキルアップの機会にもつながる。
対策3:制度変更対応を評価に反映する
インボイス対応・電子帳簿保存法への対応・会計ソフトの移行など、追加の対応業務が発生した際は、その労力を明示的に評価する。
評価制度への反映が難しい場合でも、「今回の制度対応で業務量が増えて大変だったと思う。具体的にどれくらいの時間がかかったか教えてほしい」と聞くだけで、担当者の感じる「見えていない感」はかなり解消される。言葉での承認は費用がかからない。それだけで退職を1年先送りできるケースが実際にある。
対策4:業務フローをドキュメント化する
担当者が在籍しているうちに、業務フローの文書化を進める。「マニュアルを作ってほしい」という依頼ではなく、「引き継ぎのために月次業務の手順書を一緒に作っていこう」という形で提案すると受け入れられやすい。
業務マニュアルの作り方|70点で完成させる実践的な方法でも書いているが、完璧なマニュアルを最初から作ろうとせず、70点の状態で早く完成させることが重要だ。これは退職防止策というよりも「退職されても業務が止まらない体制づくり」だ。在籍中に進めておくことで、退職が起きたときのダメージを最小化できる。
「辞めたくない」と思わせる環境作りの5つのポイント
退職防止の対策と合わせて、担当者が「ここで働き続けたい」と感じる環境を作ることが長期的な解決策だ。
| 要素 | 具体的な施策 | 難易度 |
|---|---|---|
| 業務負荷 | 定型業務を外注し、担当者は判断業務に集中させる | 中(費用が発生するが費用対効果は高い) |
| 評価・給与 | 年次昇給の基準を明確にし、制度対応コストも加味する | 中(仕組みを作る必要がある) |
| キャリア | 「この会社でどんなスキルが身につくか」を明示する | 低(話し合いだけで始められる) |
| 孤立感解消 | 月1回以上、業務の状況を丁寧に確認する機会を作る | 低(時間を確保するだけ) |
| 専門性向上 | 会計ソフトの資格取得・勉強会参加のサポートをする | 低(費用は数万円程度) |
業務効率化の支援をしていて気づくことがある。経理担当者の離職率が低い会社には共通点がある。経営者が経理の業務内容を自分でも理解しようとしていることだ。「任せているから細かいことは分からない」という態度ではなく、「何をやっているか、どんな大変さがあるか」を理解しようとする姿勢が、担当者の安心感につながる。
経理担当者は孤独な仕事だ。専門的な業務を一人で抱え、ミスが許されない環境で毎月締め切りに追われている。経営者が自分の仕事をどれだけ理解してくれているか、という点が担当者のモチベーションに大きく影響する。
まとめ:退職を防ぐより「退職しても困らない体制」を作る
経理担当者が辞める主な理由は以下の5つだ。
- 業務量が一人に集中している
- 制度変更のたびに業務が増え、評価されない
- 給与・評価が市場相場に見合っていない
- キャリアの先が見えない
- 孤立感・相談相手がいない
これを読んで「うちは全部当てはまる」と感じた場合、退職リスクが高い状態にある。退職リスクをゼロにすることはできないが、下げることはできる。
| 対策 | 主な効果 | すぐ始められるか |
|---|---|---|
| 月次で業務量を数値把握 | 過負荷の早期発見 | すぐ始められる |
| 定型業務を外注で切り出す | 業務負担の軽減 | 1〜2ヶ月で実現可能 |
| 制度変更対応を評価に反映 | 「見えていない感」の解消 | すぐ始められる |
| 業務フローのドキュメント化 | 退職後も業務が止まらない | 1〜3ヶ月で実現可能 |
担当者が「ここで働き続けたい」と思える環境を作りながら、「辞めても困らない体制」を整備する。この両輪が、中小企業の経理体制を安定させる最も現実的な方法だ。
経理担当者が辞めてから慌てて動くのと、辞める前から体制を整備するのとでは、コストも精神的な負担もまったく違う。